
秋というと生まれた川久保を思い、川久保を思うと累々と真赤に熟《う》れた柿が目の前に浮んで来る。家の周囲は幾反かの広い畑で、柿の樹が二十本あまりも高々と茂っていて、その大部分は伽羅柿《きゃらがき》と呼ぶ甘味《かんみ》、多漿《たしょう》の、しかも大果《だいか》、豊生《ほうしょう》の樹であった。一体に北山つきの村々は柿を多く産するのであるが、川久保のは特に優良といわれ、その中でも「お宅さまのはぜひ私に」などと青物仲買の商人達が先を争っていたことを思い起すと、よほどうまかったにちがいなかった。同じ村内でもそこの土壌の質によって柿の甘《うま》さに著しい甲乙があった。
ふるさとの訛《なまり》なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
と、彼《か》の啄木は歌っている。もし私が多感性な啄木の若さであったなら「ふるさとの秋はなつかしこの町の店に並べる柿見つつゆく」と歌うかもわからないが、もう頭がはげて、子供がすでに啄木の感傷の甘《あま》さに満足しない位だから、滅多には歌も詠めなくなったと、人に話したことだった。
柿もぐと樹《き》にのぼりたる日和《ひより》なりはろばろとして背振山見ゆ
この歌は川久保の秋を歌った作の中で一番よく私の知人達に愛誦されるのであるが、この外に
見きはめてわがもぐ柿はみなうましこの山里に生ひたちにけり
というのがあって、作者の私だけには愛着の深いものの一つである。二間も三間もある長い竹|竿《ざお》を秋晴の空に差しあげて、まぶしい眼をしかめて柿の実をちぎるだけでも相当の技量が要《い》るのに、あの実《み》ならとねらってちぎったものに滅多に渋いのは無かった。それは幾十年という長い年月をこの山里に生いたった者の淡い誇りでもあり、果実と山人との間の天然の親しみの不可分な妙境の尊さででもあった。果物《くだもの》は四季に実《みの》った。しかし秋、秋も柿が不思議なほど私に多くの歌を詠ませた。歌壇の一部では私を柿の歌人などと言っているそうである。
また、みかんがあった。
でも、みかんは子供とが仲よしで、歌を作るころはすでにあまり親しまなかった。そうして私は子の親になっていて
夕食《ゆふげ》食《を》す子らのどの子かにほふなりすでにみかんをもぎはじめたり
湯に入ると帯解く吾子《あこ》のふところの青きみかんの落ちてころがる
こうした歌を詠んだりした。柿はどんなに食っても隠せたが、みかんだけは知恵をしぼって裏の川で洗ってきてもいつのまにか着物などに泌みこんでいる芳烈なにおいであった。自分の少年時を追懐しては、そうひどくしかれなかったりして、父の甘《あま》さが時々妻の逆鱗《げきりん》に触れたのであった。
みかんが黄金色に熟《う》れかけるころは、そばの花もそろそろ実がちになってゆく。
そばの花が咲きかけるとかにが下るといって、村の人達はウケという竹製の籠《かご》を川につけて、かにを捕りはじめた。私は裏の小川につけて楽しんだものだった。
朝ごとに裏の川よりあげて捕るウケの山がには黒く太かりき
捕りためしバケツの底を山がにの鳴らすがきこゆ秋の夜長を
稲の穂花の白く浮いた田の水が溝《どぶ》川に落とされるころから、どじょうがよく捕れる。村ではどじょう汁《じる》が秋の最上の味として夕食の卓にのぼった。私もよく笊《ざる》と籠を持って出た。そのころまでは流行《はや》っていなかったが、その姿は安来節の踊り姿そっくりであった。
泥《どろ》足を我に洗はせつつ捕りにがしし魚の太さを子は語るなり
この魚もきっと秋の魚であったであろう。この子は当時五、六歳の長男であったことを記憶からはっきりと呼びおこすことが出来る。その子が今は兵に召されて、ひたすら忠勤を励んでいる。
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